新たな画境へ挑む

 天保五年(1834)、75歳となった北斎は『富嶽百景』初編にて、最後の画号となる「画狂老人卍」を用いました。北斎は本書巻末に、長寿を得て百数十歳に至れば、一点一格が生きるがごとき絵を描けることだろう、と記しており、終生新たな画境を追求しつづけんとする、北斎の作画姿勢がうかがえます。
 最晩年の北斎は錦絵や摺物をあまり描かなくなり、錦絵では最後の揃物《百人一首うばがゑとき》[101]などがわずかに知られています。一方で版本の作例は読本、地誌の挿絵など多彩で、特に絵手本では、富士図の集大成『富嶽百景』[105]、数種の武者絵本、そして絵画技法の解説書『画本彩色通』[108]などを発表しました。
 そして、80歳から亡くなる90歳までは、肉筆画が作画活動の中心となり、その描く内容は浮世絵師の本領である当世風俗から離れ、動植物などの自然物、和漢の古典や故事、宗教的な題材が多くなります。これらの作品で北斎は和・漢・洋の多彩な表現を用いており、北斎が絵師として長年培った技量が遺憾なく発揮されています。
 嘉永二年(1849)、北斎は病のため90年の生涯を閉じました。その死の床で、北斎はなお真正の画家となることを願い続けたと伝えられています。

読み方:画狂老人卍=がきょうろうじんまんじ/揃物=そろいもの/富嶽百景=ふがくひゃっけい/画本彩色通=えほんさいしきつう

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Hokusai’s early years

ようしょうねん〈1歳~19歳頃〉-浮世絵師以前-

ようしょうねん
〈1歳~19歳頃〉
-浮世絵師以前-

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